すき、のそのさき

君はきらきらひかる星

忘れたくない物語があった。

前回の記事で、推しの現場納めがとっても、とーっても充実してたので、それを文字にして残しておきたいという話をしました。ましゅまろを置いていたら、同じ作品を観てきたという方から、メッセージをいただきました。そちらにお返事を出す前に、やっぱり自分なりの感想をきちんとまとめたいなと思いました。

 

rmlkn.hateblo.jp

 

結論。

書こうとしたんですけど、やっぱりうまく書けなかった。

劇場に足を運ぶたびに書いていた手紙が私の全力で、精一杯だった。

仕方がないので、手紙の下書きをベースに再構築を試みたまとまりのない何事かの産物を、それでも折角だからと残しておいてみます。

 

 

物語は至極単純で、どこにでも有り得る話で、誰にでも起こり得る話。高校時代にバスケ部を辞めた主人公の松坂(まっつん)が、大人になって母校の体育館を訪れ、恩師と再会して、過ぎ去った日々を思い返す。それだけのお話。

男子校の弱小バスケ部には、ヒーローみたいにかっこいい、すごい先輩がいて、ここのバスケ部はその先輩が友達を誘って、顧問の先生と一緒にたった3人で始めたものらしい。野球部を辞めたばかりの松坂は当然バスケなんて初心者で、それでも吉住さんというその先輩が飛び抜けて上手いことはわかる。先輩が2人しかいないから、バスケ部の雰囲気は全体的にどこかゆるくて、ぬるくて、和気あいあいとしている。休憩時間には彼女が欲しいとか、帰りにコンビニに寄ろうとか、そんな話をしながら水を飲んで、バッシュの紐を結び直して、それからまたちょっと練習をして、帰る。どうでもいいことで馬鹿みたいに盛り上がって、間延びした空気が楽しくて、多分、観た人それぞれに思い当たるところのある、そんな日々。

舞台の上で繰り広げられる青春を、私はまっつんの回想を通して追体験する。部活の合間に喋るくだらない話はどうしてあんなに面白かったんだろうとか、帰り道に寄るコンビニは嘘みたいに楽しい場所だったなぁとか、過ぎ去っていった記憶の数々が、匂いまで鮮やかに甦ってくる。女子校で過ごした私の青春は、異性がいないからこそできる馬鹿みたいな話がたくさんあって、特に現実感は伴わないけどみんなで彼氏が欲しいと騒いでみたりして、理由のない不安や苛立ちを大人はみんな分かってくれないと嘆きながら、この時間がずっと続くんじゃないかなんて有り得ないことを考えて、毎日が嘘みたいに楽しくて苦しかった。

 

舞台を見終わってまず、これは誰の物語だろう、と思った。

あらすじの中での主人公は松坂で、確かに物語は松坂が母校を訪れるシーンで始まり、彼が舞台の真ん中に佇んでいるところで終わる。けれど、物語の後半、彼自身の影はどんどん薄くなっていくように感じられた。そして最後まで、松坂に特別な事件は起こらない。怪我をすることも、退場になることも、逆転の一手を投じることもなく、ただ淡々と指示通りに試合に参加して、試合を眺めて、そして自分の所在に違和感を覚えてバスケから離れていってしまう。

作中で彼の武器として描かれていたはずのスリーポイントシュートは結局、物語を決める一打にはならなかった。

自分が物語の中心にいたはずなのに、気付いたら誰かの方が大変そうで、誰かの方がドラマチックで、誰かの方が目立っている。最後の試合、涙する吉住さんの背中を見つめながら、自分の居場所はここじゃないような気がして、だからといって自分が特別になれる場所もわからない。ここなら自分も主人公になれるんじゃないかとか、本当にやりたいことが見つかるんじゃないかとか、希望はいつもなんとなく受動的で、だからうまくいかなくて、諦めて、ただぼんやりそこに立っている。そんな松坂の作中での存在と、主人公としてのアイデンティティが朧げになる演出の描写が重なって、そしてこれはきっと誰しもがどこか心当たりのある態度だから、苦しくて堪らなくなる。

振り返ってみれば、〝駄目じゃないけど、普通なだけ〟という自分自身を受け止めてあげるのに、私は随分と時間がかかったように思う。唯一無二の何者かになりたくて足掻いていた、あの頃の痛々しさが懐かしくて苦しくて、それでももう二度と戻らない時間だから、舞台の上に広がる世界から片時も目を離したくないほど愛しかった。

 

何かを諦めたとき、辞めてよかったのか続けるべきだったのかという悩みは絶えず付き纏う。だから、ラストシーンで先生がまっつんに〝バスケなんて辞めてよかったって思えるように生きなきゃ駄目だよ〟と語りかけたことがとても強く印象に残った。

人生は取捨選択の連続で、何が正しかったかなんて誰にもわからない。昔の自分の行動が良かったのか悪かったのかは、その後の自分の在り方でしか計ることができない。だからこそ、私はこれからもずっと、自分がいつか捨ててきたものを後悔しないために頑張り続けるべきなのだろうし、頑張りたいと思った。それは多分、ひどく難しいことなのだろうけれど。

 

 

この記事を書くにあたって、公演期間中に送った手紙の下書きを読み返してみた。

とりとめもなく書き綴られた文章の数々は決して形としては美しくはないけれど、この作品に出会えてよかったという気持ちだけはしっかり詰めて届けることができた、と思う。

彼がテニミュを卒業するとき、この人のこれからをまだまだ見つめさせてほしいと強く感じて、細々とではあるけれど自分なりにその姿を追いかけてきて、まだ、半年と少し。この短い間に推しは随分とたくさんの仕事に臨んで、色んな姿でたくさん板の上に立ってくれた。そんな1年間の締めくくりにこの舞台に出演してくれて、本当によかった。

誰かを「推し」として追いかけると、ひとたび出演が発表されれば内容も出来栄えもわからないうちからチケットを何枚抑えようかと考えてしまう、オタクのその思考はどこか歪に思えるけれど、「推し」のお蔭で出会えたものに心から感謝するとき、私は誰かを「推す」ことをきちんと肯定できるのだと思う。

私がこの舞台について書いた感想の手紙は、何年か経って改めて読み返したときに多分恥ずかしくて仕方なくなってしまう、そんな出来のものだったけど、懸命に込めた本心だけは色褪せることなく伝わってくるのだろうし、そうであってほしいと本気で願っています。そういう気恥ずかしさの中にある煌めきは、きっとどこか青春に似ている。

 

 

 

 

劇団た組。第17回目公演「貴方なら生き残れるわ」を観てきた話。